written by みさやんさま
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Everything i do is for you.
〜闇に架ける虹〜
<15>
――それから数ヵ月の時が経った。
パリ、15区の住宅街に、フランソワーズが住むアパルトマンがあった。
ジャンが、親しい友人から安く借りた物件だ。
フランソワーズは、カトルカール(パウンドケーキ)が美味しいと評判の、兄の妻の友人の店で働いていた。
なにも、そんなすぐに働かなくても良いと思うけどな?
と言った兄の言葉に、何かしていないと落ち着かないの。と、答えたフランソワーズに、仕事を探してくれたのだった。
アパルトマンの近所には、ブーランジェリー(パン屋)が数軒あり、朝の光に部屋の窓を開ければ、焼きたての香ばしいパンの香りが風に乗ってやってくる。中庭のマロニエの木は、春には真っ白の花を咲かせ、フランソワーズの心を癒した。
緑の木々がざわめく、中庭に面したバルコニー、白を基調とした家具類、光が降り注ぐ明るい室内、木枠に囲まれた窓、自然とあたたかみを感じる部屋。長く離れていた故郷での暮らしは、実の所、不安で一杯だったのだが、数ヶ月の時が過ぎ、深くは関わらずともそこに暮らす人々と交流をもつうちに、当初感じていた、自分がここに存在する事の大きな違和感は、徐々に薄らいで行きつつあった。
***
その日、フランソワーズが仕事を終えた頃には、辺りは夕暮れに包まれていた。
帰路、いつものブーランジェリーでバゲットを買ったフランソワーズは、夕暮れ時のパリの住宅街を、家路を急ぐ人々の中に混ざって、アパルトマンへと続く道を歩いていた。
視線の先には、デリカテッセンから出てくる人々の姿が見えていた。雑貨店や、シュペルマルシェ(スーパーマーケット)があるこの通りは、夕食の買い物をする人々で賑わっていた。
フランソワーズは、それらの人々の波を避けるようにして、デリカテッセンの手前の細い路地を曲がった。
夕焼けの空は徐々に暗くなり、数分前まではコンフィズリーのようだった月が、今は輝き始めていた。
路地裏の街頭の灯りが、建物の壁に反射している。
その先に、小さな看板が見えていた。
フランソワーズは、その看板の入り口辺りから、大きな鞄を抱えた数名の女性たちが出てくるのを、なんとなく眺めながら歩いていた。
遠くを歩く女性たちの後姿が、やがて見えなくなった頃、その看板の前についたフランソワーズは、看板を読んで思わず足を止めた。
「ここ、バレエ教室なんだわ…」
建物の入り口から見上げると、二階へと続く細い階段が見える。
この時間、まだレッスンをしている人がいるのだろうか?二階の窓には灯りがついていた。
ふと、子供の頃の記憶が蘇ったフランソワーズは、教室を覗いてみたい気持ちになった。
だが、あの日、普通の生活を無くした悲しみをふと思い出したフランソワーズは、足を止めていた。
看板も、何もかも見なかったことにして、家に帰ろう…。
そう思った時である。
「入るんですか?それとも、入らない?」
後ろから、ふいに男性に話しかけられ、入り口で佇んでいたフランソワーズは、後ろを振り返った。
「…ごめんなさい。邪魔でしたね」
そう言いつつ、男性に道を譲って歩き出そうとしたフランソワーズを、さっきの声が呼び止めた。
「…フランソワーズ、さん?」
突然、名前を呼ばれ驚いて振り向いたフランソワーズの視線の先には、見覚えのある男性が立っていた。
そして、その男性もまた、驚いた表情でフランソワーズを見ていた。
「…え〜っと…」
突然の再会にすぐには言葉が出ないニコラに、フランソワーズは、「…お久しぶりです…」と小さく会釈した。
「ほんと!お久しぶりですね」ニコラは、あの日と変わらない笑顔で微笑んだ。
「まさか、こんなとこで、また会えるなんて思ってもいなかった!」
「ほんとですね」
「この辺りにお住まいだったんですか?」
「ええ、まあ…」
バゲットを持ち直したフランソワーズは、「じゃあ私は…」と、その場を立ち去ろうした。
「…あの、良いの?」ニコラは教室の看板を指差す。
「今日は時間が無くて…」
「そっか、それは残念。実は、ここで僕の妹がピアノを弾いていて」
建物を指差したニコラの手に、車のキーが見えていた。
「ピアノを?生のピアノに合わせて、踊れるのは素敵ですよね」
フランソワーズの言葉に、「あの…、もしかして、バレエお好きですか?」とニコラが問いかけた。
「ええ」フランソワーズは、ふふふ、と微笑んだ。
「ニコラさんは、この辺りにお住まいなの?」
「いえ、この地区じゃないんですけどね。今日は、たまたま妹を迎えに」
「そうだったんですか。…それじゃあ、私はもうこれで」フランソワーズは真っ暗になった空を見上げた。
「すいません、立ち話しが長くなってしまって。気をつけて帰宅して下さいね。
ほんとは、送っていけたら良いんだけど、まだもう少しレッスンの時間があるから、あなたを、お待たせするわけにはいかないし…」 ニコラは、時計を見ながらそう答えた。
「この辺り治安は良いはずですけど…、一応」
そう言いながらニコラは、メモ用紙に、自分の携帯の番号を走り書きすると、フランソワーズの手に握らせた。
「帰宅するまでの、お守りです」
「お気遣い、ありがとう」フランソワーズは、ニコラの優しさを嬉しく思った。
「今度、時間がある時に、どこかでまたお会いできると良いですね」
「僕ならいつでも!…とは言っても、明日から国際線のフライトで、その後は、いろいろと研修の日程とかもあって」
「明日は、モスクワだったかしら」
「ええ、アルヌール機長は、確かそうだったと思います。僕は今回は、アルヌール機長とは別便になったんで」
「そうだったんですね」
「…あの、お気を悪くされたら申し訳ないんですが…。アルヌール機長とは…どういったご関係なんでしょうか?実は成田で、偶然に見てしまって…」
しばらく考えたフランソワーズは、「……フライト前の、あの時の事なのかしら?…」と答えた。
「ええ、機長が、あなたを抱き寄せていて…、こういう感じに…」
ニコラは、空気を抱き寄せるような仕草をした。
「…“ジャン”は、親戚です。私、いつも心配をかけてしまっていて…」
なにもかも下手な言い訳にしか聞こえず、結果、ニコラに嘘をついてしまうことを、フランソワーズは心苦しく感じていた。
しかし、この時間を生きていくということは、つまりはこういう事の連続なのだろう。それが嫌なら、誰とも関わらずに生きていくしかない。
そしてこの先、そういう選択をする時があるのかもしれない…と、フランソワーズはこの時、ふと思った。
フランソワーズの答えに、ニコラは、ほっとしたように微笑んだ。
「あの後、実は、機長に何度か、あなたの事を聞いてみてたんです、僕」
「………え。そうだったんですか」
「でも結局、機長からはなにも聞けなくて、うまく話題を変えられてしまったというか。それでもう、あなたとはお会いすることは無いんだろうなって、今日まで思っていたんです」
ニコラは、苦笑いしていた。
「…そうでしたか」
ジャンは自分とは違い、そういう場の切り抜け方、話題の転換が上手いのだろう。
「僕、来週末は休みなんです。よかったら、一緒にどこかへ出掛けませんか?」
***
この偶然の再会がきっかけとなり、その後フランソワーズは、ニコラとは度々会うようになった。
ニコラは、以前に兄が言っていたような男性だった。優しくて真面目、仕事にも熱心で、ユーモアもあり、会話の中でフランソワーズを笑わせることも多い。妹がいるからだろうか、包容力を感じさせる時もあった。いつだったか、ニコラと会っていることをジャンに話した時、ニコラに密かに想いを寄せている女性が社内では何人かいるようだという事を聞いたが、それも納得してしまうような、そんな男性である。
ニコラの仕事柄、会うのは週末とは限らず不定期な状態だったが、二人で会った回数が増えるにつれて、フランソワーズは、徐々にニコラに心を許すようになった。
ニコラにとって自分が、もう友人としての距離間ではない事は、ニコラの言葉や態度で分かっていたのだが、彼を一人の男性として意識するようになった頃から、フランソワーズの心の中では、意識して封印すればするほど、ジョーの存在が大きくなっていた。
ジョーとは、もう会うことはないのだろうか…。
パリに帰国してすぐの頃、一度だけ手紙を書いたことがあったが、それは当たり前のように戻って来てしまった。
おそらく、もうあの場所に研究所は無いということなのだろう。
いや、もしもあったとしても、世間から居住地を隠すことなどは、009達にとっては容易な事だ。
昔を思い出せば、ジョーに会いたくなる。
今、どこでどうしているのだろうか?無事でいてくれているだろうか?
あの日から、いつ命を落とすか分からない日々の戦闘からは無縁の場所で生活している自分。
生活環境から、戦闘とは無縁の別世界の住人となっているようで、実は自分という人間は、この身体は全く変わってはいない。
サイボーグの視聴覚という機能を失っただけで、やはりこの身体は、サイボーグであることに変わりはない。
どうしたって、忘れることなどは出来なかったが、その世界とは“一線を引いた”自分にとって、会いたいという気持ちすら抱いてはいけない事のような気になっていた。
自分は、普通の人間であるニコラを騙している。ニコラと会う度に、どうしてもそんな気持ちなってしまう。
間違った選択をし、気がつくと大切な誰かを傷つけている…フランソワーズは、自分が傷つくことは全く構わないと思っていた。だが、自分を信じているニコラを、傷つけたくはなかった。
いつしかフランソワーズは自分を責めるようになり、そして、ニコラからの誘いを断るようになった。
その日は、朝から雨が降っていた。
昼から、ジャンの家を訪ねることになっていたフランソワーズは、フランシーヌへのお土産にと、午前中に焼いたクッキーをラッピングしていた。
その時、テーブルに置いた携帯電話が鳴ったことに気がついた。着信を見ると、ニコラからだった。
数回躊躇ったが、電話に出たフランソワーズは、傘を持つと玄関を出た。
***
アパルトマンの玄関近くには、ニコラの車が停まっており、車から降りたニコラがフランソワーズを待っていた。
アパルトマンから出てきたフランソワーズを、ニコラは無言で見つめていた。
一言二言、言葉を交わすが、その後が続かない。
何故、ニコラが会いに来たのかも、分かっていた。
そしてこの先、自分が話す言葉は、なにもかもが自分勝手な言い訳にしか聞こえないことも…。
ニコラと視線が合うが、以前のように笑えなかった。
フランソワーズは、寂しげなニコラの視線を黙って受け止めていた。
先に口を開いたのは、ニコラだった。
「僕では駄目なのかな…」
ニコラは、充分に素敵な男性だ。自分を否定する言葉に、フランソワーズは心を痛めた。
そういう事をニコラに感じさせてしまった自分の態度に腹も立ち、そして、普通の女性とは違うわが身を寂しくも感じた。
静かな空気の中、傘にあたる雨が、ポツポツと音を立てていた。
「…私といても、あなたは幸せにはなれない…そう思ったの。もっと、素敵な女性がいるわ…」
「僕は、あなたを愛している」
「……でも、私は…」
「フランソワーズよりも素敵な女性なんて、僕には考えられないんだ」
「でも…私は、あなたとは違うの…だから」
「同じです、瞳だって、肌だって、言葉だって…」
「でも、違うんです…なにもかも…、時間の流れだって…」
「…時間は…確かに時差のある国にも行くから、仕事柄、あまり会えないことが辛いと言われれば、何も、言えなくはあるけど…」
「…ごめんなさい。友達に戻れないかしら…」
「…それは、急には…」
「自分勝手だわね、私…」
ニコラと視線を合わせられなくなったフランソワーズは、俯いた。
「友達は…無理です。だって僕は、仕事が終われば君に会いたくなるし、フライトで遠くに行けば声が聞きたくなる。
女性とお付き合いしていて、ここまで夢中になったのは、フランソワーズが、初めてです。正直、けっこう自分は、恋愛では冷静な方だとは思ってはいたんですが、今の自分を考えると、そうでもなかったと分かりました…」
「…ニコラ、ほんとにごめんなさい…。私は、あなたに相応しくないの…」フランソワーズの声は、涙ぐんでいた。
どうしてこんな時に涙が出てしまうのだろう。
泣きたい気持ちなのは、私じゃないのに…。
ニコラの気持ちなって考えれば考えるほど、泣きたくなってくる。
「…涙を…拭いて下さい」
ニコラは、俯くフランソワーズの傍によると、少し前かがみになって、視線を合わせた。
そんなニコラの前髪を、雨粒が濡らしていた。
やげて、意を決したようにニコラが言った。
「…友達に戻れるように、努力してみるから、時間はかかるだろうけど…」
それは辛い別れとなった。
***
ある日、買い物からの帰宅途中のフランソワーズは、目の前にちらつく白い影に気がつき、空を見上げた。
この通りの街路樹は、プラタナスとマロニエの木が交ざっているのだが、今の季節に落ちてくるとすれば新緑の葉だ。
フランソワーズは空を見上げた。
マロニエの花びらが散るのは4月の終わり頃、初夏に近いこの季節に雪が降るなども、あり得ない。
「…なんなのかしら?」
フランソワーズは、周囲の人々を見渡したが、人影は無い。急に怖くなったフランソワーズは、アパルトマンの方角へ向かい、走り出した。
少し走った辺りで、急に目の前の路上がグニャリと歪んで見え、電灯が消えた夜の街のように、辺りの景色が真っ暗になった。
怖い!
耳を澄ますのだが、聞こえてくるのは、風が木の葉を揺らす音だけで、左右、どちらに進めばいいのか。
これ以上は走れなくなったフランソワーズは、その場に立ち止まった。
いつの間にか、さっきまで靴越しに感じていた足元の石畳の感触は消えている。
うっかり、車が走行する路上に出てしまったのかもしれない。なんとか歩道に戻ろうと、一歩一歩ゆっくりと足を前に出した、その時である。
車のクラクションの音が鳴り響き、突然のことにフランソワーズは悲鳴を上げた。
轢かれる!という恐怖を感じたその瞬間、フランソワーズは、身体がふわりと宙に浮く感覚を感じた。
***
瞼に暖かい日の光を感じたフランソワーズは、自室のベッドで目を覚ました。
視界には、いつもの天井が見えていた。さっきの出来事は、すべて夢だったのだろうか?
フランソワーズは、身体に残った浮遊感に懐かしい感覚を思い出しながらベッドから起き上がった。
「…ジョー」
自然と、その名前が口をついて出ていた。
ベランダから、目立たず移動できる帰路を確認するため、中庭の景色を覗いていたジョーは、名前を呼ばれて振り向いた。
視線の先のフランソワーズは、ベッドの上で、まだぼんやりとしていた。
「…具合は、どう?」
聞きなれた懐かしい男性の声が、すぐそばで聞こえ、驚いたフランソワーズは、声が聞こえた方へ顔を向けた。 |