「EVERY BREATH YOU TAKE」
      written by みさやんさま








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翌日は朝から曇り空だった。
カーテンが閉まったままの室内は、僅かに明るくなっている程度だった。
ソファーから、だらりと落ちたジョーの腕は、丁度、彼がソファーの前で脱いでいた靴に触れていた。
リビングにある中庭に面した大きな窓辺に小鳥が止まり、それがピーピーと何度も鳴いた声で、ジョーは目を覚ました。
彼はソファーから身体を起こすと、室内を見回した。
周囲に危険がないか、確認する事は無意識な癖になってしまったようだ。
靴を履き、2Fへと続くブラウン色の木の階段を見上げる。
そこにフランソワーズの気配は感じられない。
一階から僅かに見える整えられたベッドのシーツからも、そこに彼女がいないことが感じ取れたが、一応、名前を呼んでみた。
やはり返事はない。
ジョーは、ダイニングテーブルへと視線を移した。


ジョー


テーブルの上には、オムレツとサラダ、クロワッサンといった簡単な朝食が用意されている。
その横には、何か書いてある紙が一枚と、パリ市街の地図が置いてあった。
キッチンの壁にある時計を見ると、朝というよりは、ほとんど昼に近い時間帯である。

(いつまで寝てたんだ…、僕は…)

どうやら、フランソワーズが朝食を作る音にさえ、目を覚ます事なく完全に眠っていたらしい。
普段は小さな物音一つでも目が覚め、就寝中でさえ眠っていないように神経を尖らせていた彼にとって、今日のような事は過去、無かったのである。
ジョーは、009としては情けない、昨晩から今朝の自分の状態に溜息をついた。

テーブルの傍の椅子の上には、今朝の新聞が置いてあった。
彼はフランソワーズが残したメモを真っ先に読むと、新聞に手を伸ばし、そのままその椅子に腰を下ろした。
ジョーは、これといって特別、気がかりな事件が載っていない新聞を読みながら、何故フランソワーズが、一人で先に出掛けてしまったのかを、 頭の隅で考えていた。
新聞の文字に目を走らせながら、頭の中の記憶は、昨日の彼女の様子を思い浮かべている。
昨日は、朝から夜まであっという間に時間が過ぎていった日だった。
この任務は目立たないように二人だけで…、といった状態は、博士や仲間達から、ある意味、009としての力を認められている事を意味する。
事前調査で、この任務に危険がある可能性は低いと判断していたものの、003ことフランソワーズと、二人だけで終始、行動を共にするのは、 今回が初めてである。
正直なところジョーは、このアパルトマンへチェックインするまでは、万が一の事態を考え、周囲の状況には常に神経を張り詰めさせていた。
そんな状態の彼が、フランソワーズとたわいも無い会話を始めたのは、夜、レンタカーを所定の場所に返し終えてからである。
ジョーが話しかけると、フランソワーズは穏やかに微笑んだ。

ジョーは再び、フランソワーズが残したメモへと視線を移していた。
メモには、待ち合わせ時間と場所が書いてある。
その下に、 買い物をしたいので、先に出掛けます。昨日お話したお店へも行きたいので…。 と、フランス語で書いてあった。

血の繋がった身内が誰一人といない自分とは違い、フランソワーズにとってパリは、大切な…、大切な場所であるはずである。
ジョーは、任務が終わり次第、いつでも自由な時間を彼女に作ってあげたいと考えていた。
任務という束縛の無い、自由な時間。
彼女がフランソワーズ・アルヌールに戻れる時間。
そこに009という存在は必要ないはずである。
その能力を持ってして、状況判断の優れた003が、一人で出掛けられるという事は、出先に危険はないのだろう。
『009』がフランソワーズの元へと急ぐ必要はない。
せっかく故郷へ帰省しているのである。フランソワーズからすれば、自分がいない方が、一時でもゼロゼロナンバーとしての戦闘の日々を忘れ、 そして普段出来ない事を楽しめるのではないか?
彼女は自分のような生い立ちの人ではなく、歪んだ過去すらない。
BGという人生を急転させるような、悪の存在に運悪く出会わなければ、ここパリの街で、今頃は幸せな人生を送っていたはずである。
血生臭い戦いの中に身をおくこともなく、そして自分なんかとは出会うこともなく、今頃はバレエの世界でエトワールの地位を得ていたはずである。
頑張りやの彼女の性格を考えると、自らの実力とその才能で、夢を叶え、世界中の舞台に通用する、そんなバレリーナになっていたはずである。
そう、何処の馬の骨とも分からないような、そんな自分という存在に出会う事すらなく、全く別の人生を歩んでいたような、自分とはほんの僅かでも 交わる事のないような、そんな輝かしい人生を、フランソワーズは歩んでいただろう…。と、ジョーは思う。

目の前の朝食と、その前に座る、戦闘服ではないパジャマ姿の自分。
それは普通の人間としての、ごく普通の光景である。

フランソワーズは…、将来、もし戦闘に終止符をうつことが出来たなら…、その時、彼女はどうするのだろう?
彼女もまた…、過去の仲間達のように、その時、自分から離れていってしまうのだろうか?
メンバー達は、それぞれに帰る故郷だってある。生まれ育った国に戻り、そこで暮らしたいというのは、当たり前の感情だろう。
もしその時が来たら…
フランソワーズは、兄が生きている可能性のあるパリへ、故郷へと戻ってしまうのだろうか。

…しまう?

ジョーは、自分が思った事に対してふと立ち止まる。

しまう…、なんて表現は、もともと間違っているように感じる。
先の選択を決めるのは、各個人であり、フランソワーズの人生に自分の意見が介入する隙間なんてないはずだから。

その時が来たら?

その可能性は捨ててはいない。全力でBGを倒すつもりでいる。
だけど…自分は生きているのだろうか?
そして他の皆は…。フランソワーズは…。

ジョーは、誰もいないキッチンをふと見る。
昨晩のように、フランソワーズの姿はそこにはない。
後ろ向きな思いは、ジョーの気持ちを沈ませるだけだった。
ジョーは、パジャマを脱ぐと、身支度を整え始めた。
着替えながら、様々なネガティブな考えを吹き飛ばすように気持ちを入れ替える。

秋のパリは肌寒い。
彼は、出掛けるための服に着替え、ジャケットを手に持つと、中庭が覗ける窓から外の天気を確認した。
そしてフランソワーズが書いたメモを持つと、玄関の扉を開けたが、何かを思い出したように再び部屋に引き返すと、 朝食が用意されているテーブルの椅子に座った。

(食べなきゃ叱られる…かも)

ジョーは、皿の上の形の良いオムレツを口に運んだ。
手作りの料理は、傍に作ってくれた人の存在を感じなくても、その存在を思い出させる愛情のひとつだった。
ジョーは、自然と数日前の夜を思い出していた。


***

翌日にミッションを控えた前日の夕食時での事である。
ジョーの部屋の扉をノックする音がして、間もなくフランソワーズが部屋に入ってきた。

『夕飯の用意が出来ているの。みんな集まっていて、もう食べ出しているわ。ジョーも来て…』
『…有難う。でもお腹すいてないんだ。…僕は食べなくても大丈夫だから、気にしないで』

ジョーにとって、別に深い意味はなく、気分が落ち込んでいたわけでもなかった。
なんとなく食欲がなかっただけの彼は、そう返答していた。
ジェットとは違い、この身体になって、三度の食事時間に空腹を感じる事が少なくなっていたのも、ジョーをそこから動かさない一つの理由ではあったのだが…。

『…でも、空腹を感じる中枢は、生まれてからずっと、あなたと生を共にしている生身の脳なのよ。お腹がすいていないから、食べなくても平気なんて…、 だから此処にいるとか、…そんなの、ダメよ!』

フランソワーズはややきつめの口調でそう言い放つ。

『そうだ…ね』

その口調に顔をあげたジョーの視線は、優しい瞳のフランソワーズを捉えた。
フランソワーズは、ベッドサイドに座っているジョーの目の前に、すっと手を差し伸べていた。



ジョー&フランソワーズ


『さあ、一緒に行きましょう?お料理が冷めちゃうわ』

しばらくたってジョーが返答する。

『…冷めててもいいよ』
『温かいほうが美味しいわ。…それに、今晩はすべて私が作ったの』

『え?張大人じゃないの?君が作ったの?』
『兄と住んでいた頃は、私が毎日作っていたのよ。大丈夫、今回は焦げてないから。中も上手く焼けているはずよ』

(は、はず…?)ジョーは思わずそう言いそうになったのだが、思っただけで言葉を止めた。

『肉と野菜のパイ包みなんだけど、今回は上手く焼けたわ』

きっと焼き加減などが難しい料理なんだろうな…、と、ジョーは推測する。
目の前のフランソワーズはにっこり微笑んだまま、手を引っ込めない。
なにがなんでも今、ジョーをリビングに連れて行きたいようである。

『それに、一人で後で食べるより、皆で食べたほうが美味しいわ』

『…そうだね、行くよ』

そう言って立ち上がったジョーの手をフランソワーズが握った。
そしてそのまま、部屋の扉へと誘導された。
目の前のフランソワーズの背中は、なんとなく嬉しそうである。
暖かな手の感触に、ふとそのままずっと手を繋いでいたい気持ちになったジョーだが、下へ降りる階段の前でフランソワーズに話しかけた。
下の階からは、食卓を囲むメンバー達の賑やかな声が聞こえて来ていた。

『……あのさ、このまま手を繋いで下に行くつもりなの?』
『あ、ごめんなさい。これは…えっと…、その…』

フランソワーズは、パッとジョーの手を離すと、くるりと振り返り、ジョーの方を見た。

『逃げないよ。ちゃんと下に行くから』

そんなフランソワーズにジョーは微笑んだ。

『…うん』
自分の無意識な行動に照れてしまったのだろう。エプロンを身に着け、頬を染めるフランソワーズは可愛かった。

『早く行かないと、フランソワーズが作った料理が無くなっちゃうね』
『ええ…、そういえばジェットがすごい勢いで食べていたわ。…えっと、とても嬉しいけど』

『そう、きっと、君の手料理がとても美味しいんだよ』



自分の責任ではあるが、出遅れたためにパイはほとんど皿には残っていなかった。
その他の料理も僅かに皿に残っている程度である。
空腹ではなかったために、ジョーにとっては丁度よい量が皿に残っていたのだが、ジョーの向かいに座るジェットが満足そうに
『旨かった〜。お前さ、食ったり食わなかったりで、しかもいつも食事のとき遅いけどよ、今日はすべてフランソワーズが作ってくれたんだぜ?
もっと早く来ればたくさん食えたのによ♪』
と、いつもの調子で話す声と、ジョーを呼びに行った割には、僅かにしか皿に残っていない料理の様子に、フランソワーズが申し訳なさそうにジョーを見たその表情が、ジョーの脳裏には後々ずっと残った。
フランソワーズの表情が頭から離れなくて、その日を境にジョーは、空腹ではなくても、とにかく食事の時間には席に着くようになった。
特別、体調が悪いわけでもないのに、食べないのは、食事の用意をしてくれた人に対しても失礼だとも感じていた。

それに教会では規則的な生活をしていたから、もともと時間が守れないわけではない。


***

料理を温めるための電子レンジは、キッチンにあるのだが、ジョーはあえて使わなかった。
一口たべたオムレツは、冷めていても充分に美味しかったからである。
良い状態で火が通ったオムレツと、昨晩、大通りで偶然目に入った店に二人で入り、そのパン屋で買った朝食用のクロワッサン。
そして綺麗に盛りつけられたサラダ。テーブルの上で、保温状態にされていたコーヒー。
そのすべては、ジョーのために今朝、用意されたものである。
そこに特別な意味はないとしても、自分の為に時間をさいて、そして自分の為に食事の用意を残して出掛けた彼女の行動に、感謝した。
ジョーは食べ終えた皿をシンクで洗い終えると、ジャケットとメモを持ち、再び玄関の扉を開けた。
階段を下まで降りて外に出ると、天気予報が当てにならない、気まぐれな雨が静かに降っていた。

『この時期のパリは雨が多いの。冷たい時もあるし、暖かく感じる時もある。この雨の感じ、“あの頃”と変わらないわ…』

曇り空を見上げたジョーに、フランソワーズの言葉が頭をよぎる。

フランソワーズの故郷パリ。
ここで今、一人で行動する彼女の上に降る雨は…、

つめたいのだろうか? それとも、あたたかいのだろうか?


ジョーは、パリの通りを歩く。
そして、雑貨屋でシンプルな色の傘を買うと、メトロが走る駅へと向かった。





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