written by みさやんさま




Everything i do is for you.
 〜闇に架ける虹〜



<1>



運転席に座る妻のフローラと、軽いキスを交わしたジャン・アルヌールは、 身体を屈め、後部席に座る娘のフランシーヌへと手を伸ばした。
フランシーヌは、いつものようにジャンの袖口の四本の金色の腕章の辺りを両手で掴まえると、「いってらっしゃい、パパ!」と、笑顔で答えた。
大きくて暖かい父の手が、娘の頭を優しく数回撫でる。
それを微笑ましく思いながら、運転席のフローラがジャンに声を掛けた。

「安全なフライトをね。気をつけて」
「ああ、いってくるよ」

ジャンが車を降りると、フローラは再び車のエンジンを掛けた。
いつものように、助手席のドアを閉めようとしたジャンの手が一瞬止まる。

「フローラ、俺……」

その声に、フローラがジャンの方へと振り向く。
ジャンのブルーの瞳は、いつもよりも深い色をたたえてフローラを静かに見ていた。

「…ジャン、何も心配しないで。私も、同じ気持ちだから」
フローラは、明るい笑顔でジャンを送り出すかのように、そう言った。

「…ありがとう。君と一緒になれて、幸せだよ。フローラとめぐり会わなかったなら、俺は一生、独身を通しただろうな」

”君と一緒になれて、幸せだよ”
その言葉にフローラは、ジャンと生活を始めたばかりの頃を思い出す。

「ジャン、私もよ。でもあなた、出勤前に何を言い出すのかしら?」

初めてデートしたあの頃のように、愛らしく微笑む妻のフローラを見てジャンは、一瞬ドキリとした。
初々しいその頃の恋心を、妻の笑顔で一瞬で思い出し、この年になっても妻に対してときめきを忘れない自分の気持ち。
それを誤魔化すようにして照れ笑いしたジャンは、

「…な、何をって、いつも俺が思ってることだよ?」
と言い、優しく微笑み返した。

「パパもママも、幸せね」
突然、夏の向日葵のような明るい声が二人の会話に割り込んで、ジャンとフローラは顔を見合わせてさらに笑った。

「フランシーヌ、パパがお仕事で留守の間、ママのことよろしくな」
「任せといて、パパ。ママが寂しくて泣かないように、私がママと遊んであげるんだから」
「まあ、フランシーヌったら…」

「はは、頼もしいじゃないか。…じゃあ、二人ともいってきます!」
「いってらっしゃい、あなた」

フローラが運転する自家用車のテールランプが小さくなり、 その向こう側に見える青空に、トリコロール・カラーをデザインした白い機体が飛び立って行くのが見えた。
ジャンは、フライトバックとスーツケースを手に取り、 空港の関係者入口へと向かい歩き出した。


ジャン


今回のフライトは、日本。
ジャンにとっては、もう何度も飛んだ経路だったが、今回はステイ先で確かめたいことが待っていた。
国際線の場合、次のフライトまで海外で何泊かを過ごす。
時差がある国で、体調を崩さないように自己調整する以外は、ステイ先で特別行動を規制されることはなく、基本的には個人ベースで過ごす。
ジャンは、三ヶ月前の職場での出来事を思い出しながら、空港入口へと歩いていた。
三ヶ月前、ジャンの個人的事情を知る、妻の友人の客室サービス勤務の女性、 ステファニーが、12月の搭乗者名簿に、偶然フランソワーズ・アルヌールという名前を見つけた。
年齢は19歳。ジャンの妹が行方不明になったのと、同じ年齢である。
年齢から考えても同姓同名の別人であることは、一目瞭然だった。
ステファニーは、「年齢も違い過ぎるし、アルヌール機長に教えるのはどうかと思ったんだけど、でも、同じ名前のフランス人なら、やっぱり確かめたいのが肉親の想いじゃないかって思って…。
それに、ここ数年は、僅かな情報すら、何もないって肩を落とされていたから…」
と言いながら、とある便の搭乗者名簿をジャンに見せた。


Francois Arnoul. その名前が、ジャンの目に飛び込んできた。



日本行きの搭乗者名簿に、フランソワーズ・アルヌールという名前を見つけたときの、尋常ではない胸のざわめき。
世の中には、科学で証明できない、そんな不思議な出来事が起こる事があるんじゃないか?
妹が生きているという希望を諦めない俺が、瞬間に思ったことだ。

妹を探し続けて40年、民間の旅客機のパイロットになって39年、この長い歳月の間に、同姓同名の女性が、妹であるのかどうかを確認する機会は何度かあったが、今回の情報はいつもと違う不思議な何かを感じた。
身体中の血が騒ぐような、鳥肌が立つような…、そんな感じだ。
最も、同姓同名のフランス人女性の情報は久しぶりの知らせだったから、藁にもすがりたいようなこの想いが、何かを感じると勘違いさせただけかもしれないのだが…。
個人的事情で妹を探している手前、スカイチームやコードシェア便に残る情報までは確認できなかったが、ステファニーのおかげで、 その女性が使用したチケットが、インターネットのオンラインで購入されたものであり、“島村ジョー”と言う男性と一緒に搭乗していたことまでが分かった。
通常、特別に事件がなかった運航便の乗客名から、購入者の住所までを詳しく調べる事はしない。
乗客の個人的な情報は、厳重なパスワードで幾重にも守られており、それを閲覧するには、会社への申請と上司の許可がいるからだ。
ステファニーが、どういう理由をつけて上司の許可を貰ったのか定かではないが、パソコンに残る膨大な乗客データから、“フランソワーズ・アルヌール”という女性が乗った航空チケットを購入した“アイザック・ギルモア”という人物の居住地までも調べてくれたステファニーに、心から感謝する…。

妹を同じ名前のフランス人女性、フランソワーズ・アルヌール。
とにかく俺は、アイザック・ギルモアという人物と関わりのある、この女性に会っておかなければならない…。そうすることが、例え妹と年齢が違えども、こんなにも情報が乏しい40年の歳月の中で、一度も希望を捨てていない俺なりの探し方だと思っている。



入口の警備員にIDカードを見せたジャンは、運航管理室へと出社した。
そこで、自分の便のフライトプランを受け取ると、デスクへ向かい副操縦士の記入をチェックしながら、出入国管理書類などにサインをした。
腕時計を見ると、クルー全員とのブリーフィングの時間までに30分の余裕があった。
カウンターに置いてあるコーヒーメーカーからコーヒーを入れたジャンは、席へ戻ると、それを飲みながら自分宛の社内書類へと目を通す。
今夜の便の乗客の中には、日本人の妊婦が一名。医師の必要書類は、カウンターでチェック済、備考欄には、フランス語と英語が話せる日本人の夫と同乗する、と記入してある。その他の乗客の中に、トラブル・パッセンジャー等はいないようで、今回のミーティングは短時間で済みそうである。
再び時計を見たジャンは、席を立つとミーティングルームへと向かった。


それから数時間…。

シャルル・ド・ゴール空港、出発ロビーでは放送が繰り返されていた。


“AIR FRANCE航空、23:25分発、東京行きスターウイング便に御搭乗のお客様は、ホールF2階、○番ゲートまでお急ぎ下さい。繰り返します……”



乗客の搭乗が終わりに近い頃、コクピットの操縦席に座るジャンは、 ACARS(デジタル通信装置)がプリントアウトした離陸速度等が書かれているデーターを、飛行情報システムにインプットし、それが機上の計算と一致するかを確認していた。

「飛行航路の天候は、おおむね良好だな…」

夜になって降り出した雨が、コクピットのフロントガラスをつたっていた。
副操縦士は、機体の下に整備士がいないことを確認すると、ウオッシャー液のボタンを押した。

「アルヌール機長、雨の滑走路ですね…」
「ああ、夕方まで晴れてたのにね。今夜は、雨が強いな」

「三日前、ロンドン行きの便の離陸をしたんですが、今晩みたいな雨の日に、V2でバード・アタックがあって…、まあエンジンは大丈夫だったんで、引き返さずに済んだんですけどね。V2でのバードアタックは、初めての経験だったんで、さすがに焦りました」

「そりゃ大変だったね。鳥の方も運が悪かったな」

「運が悪いっていえば、例の“原因不明の積乱雲”メルボルン行きの便も遭遇したらしいですよ。以前、カンタス航空から連絡があったのとは別の場所です。なんだか気味悪いですね…」

「…そうだな。今の所、事故が起こっていないからいいが」

「積乱雲の中の飛行は、シミュレーションでやってますが、突然、あれの凄いのと遭遇となると、考えるだけでヒヤリとします」

「まあ、そのヒヤリがパイロットの腕を育てるんだけどね。精密なシミュレーション教育でも、限界ってのがあるからね」

「おっしゃる通りですね、機長。でも、ほんと、もしもの時はお願いします」
「ああ。状況によっては休憩中でも操縦桿を交代するから、その時は、ブロック・アルティテュードの連絡はしっかりしててくれよ?」

「了解です、機長」

この時、空港のタワーから、離陸の許可が届いた。

「…さあ、時間だ。出発するぞ!」

キャビンアテンダントに離陸の合図を送ったジャンに、間もなくして、出発前の客室アナウンス終了のサインが送られて来た。

幾つもの計器が並ぶ夜のコクピット内。
空気が張りつめ、ジャンの指が機体にパワーを入れる。

四基のエンジンが順番に始動し、ライトを点滅させながら、ゆっくりと大きな機体が動き出す。
そして巨大な力を蓄えた機体は、加速を開始した。
滑走路灯の光が、次々と後方へと流れて行き、 速度計はV1(265キロ)へと近付く。
スピードを増した機体は、すぐにVR(292キロ)へと変わり、 ジャンは機首を引き起こした。
フロントガラスには夜空だけが広がり、ゴーッという機械音が大きくなる。

座席に押されるような空気抵抗を、より強く身体に感じる。
巨大な機体を動かす力は、今にも限界速度へと達する。

「V2」

コクピット席に、車輪が地面を離れる独特の音が伝わってくる。
速度計は限界速度(313キロ)にまで達し、振動が消えた機体は、ふわりと夜空へ舞い上がった。

「上昇確認。ギア・アップ。ワイパー・オフ」
「エンジン計器、異常ありません」
「了解。センターコマンド、プッシュ」
「センターコマンド、プッシュ」

振動が消えた心地よい静けさの中、 地面に押し付けられるように重かった機体が、 大空へと生き生きと翼を広げた。


遠く下に、パリの街の灯りが見える。

ジャンは、機体をオートパイロットへと切り替えた。


AIR FRANCE航空、東京便は、雨のシャルル・ド・ゴール空港を日本へと向かい飛び立った。


←back / next→