「EVERY BREATH YOU TAKE」
     written by みさやんさま





<8>



明け方ジョーは、眠気の覚めない身体でぼんやりと天窓から見える空を見上げていた。
薄暗い空は水分を含んだ重そうな雲を浮かべ、ゆっくりと動いている。
肌に感じる室内の冷気に、ベッドサイドの明かりで時刻を確認したジョーは、ベッドから出ると静かに階段を降りた。
そして、リビングのセントラル・ヒーティングのスイッチを入れると、音を立てないように今朝の新聞をポストから取り出すと、 ソファーが見える位置で足を止めた。
奥に見えるソファーで眠るフランソワーズは、ジョーが起きた事には気が付いていない。
ここ数日の間に、なんのためらいもなく彼女に惹かれた、と思う。
いや、自覚したのがここ数日なだけで、もっと以前からそうだったのかもしれない。
“いけない”と思いながらも、ゼロゼロナンバーの仲間としての会話以外で、彼女との距離が少しずつ近付いても、一度だって心の中に壁を作らなかった。
昨晩、そんな事を考えながら眠れなくなった自分とは対照的に、穏やかな寝顔で眠っているフランソワーズの寝顔にジョーは、表情を和ませると、彼女を起こさないように静かに二階のベッドへと戻った。

天気予報は、曇りのち雨、夜には雪と書いてある。
今日はフランソワーズの兄の件で、パリ内を移動する。
僅かでも手がかりが見つかれば…、と思いながらも、年月が経過した今、それはほとんど奇跡に近い現実であることは分かっている。
ジョーは、車の中でのフランソワーズを思い出していた。
“忘れていた感覚”
あの時のフランソワーズは、通り過ぎる景色と一緒に、何を見ていたのだろう?
思い出という軌跡をたどって彼女は………。
昨晩、眠れなかったジョーの身体は、今になって眠りを求め、徐々に力を抜き始めていた。
意識を手放す前に時計の目覚ましをセットする。
ジョーは、一時間だけ眠るつもりで瞳を閉じた。


―――――――――――。





***



目覚ましの音がする。

「…ん…」

いつの間にか眠ったジョーは、その音を止めようと布団から手を伸ばした。

(…なんだ、これ?)
時計の位置で触れた温かく柔らかな感触。
その感触にはっきりと目を覚ましたジョーは、顔に掛かる布団をよけると、頭上に置いてある時計を見上げた。


ジョー、フランソワーズ


見上げた先には、フランソワーズが立っていた。

「…フラン…ソワーズ…」
「おはよう、ジョー…」

ジョーは、フランソワーズの手の上に重なっていた自分の手を引っ込めると、身体を起こした。

「…おはよう。…ごめん、もしかしてずっと鳴ったままだった?」
「ううん。しばらくだけよ。…ジョー、まだ早いわ。寝てても大丈夫よ?」
「…いや、もう起きるよ」

そう呟くジョーの視線は、何も無い空間を見つめている。
まだ眠そうだ。
フランソワーズは、ジョーの隣のベッドに置いてある、新聞に視線を止めた。

「あ、新聞」
「ああ、ごめん。天気予報を見てたんだ。見る?」
「うん」
「隣、座ったら?」
「ええ。今朝は、急に冷えたわね。えっと、…曇りのち雨、夜には雪か…」
「今日は、ほとんど車での移動になりそうだね?」
「ううん、メトロで大丈夫よ。その方が、移動しやすいわ」
「うん、分かった。お兄さんとの思い出をたどるけど、…大丈夫?」
「大丈夫」
フランソワーズは、微笑む。
「…あ」
「なに?」
「下のセントラル・ヒーティングつけてくれて、ありがとう。私、ジョーが起きたの気が付かなかった」
「でも、起きたって言うか、夜、なかなか眠れなくて、なんとなく明け方まで起きてたから…」
「…夜、雨が強かったわね」
「雨、フランソワーズも、あの時間まで、起きてたの?」
「…うん。私もなかなか寝付けなくて」
「やっぱり、ずっと僕がソファーで眠れば良かったな」
「あ、寝つけなかったのは、寝床が原因じゃないの、なんとなく、マリアさんに聞いた事とかいろいろ思い出してしまったからで…。ダメ、寝る時にそういうの考えちゃいけないわね」
「確かに、そうかもしれないね。…身体の方は、もう心配ない?ここに来る前、ギルモア博士には、聞いてるから…」
「ジョーには、心配かけてしまってるわね。でも、そっちも大丈夫よ。昨日、マリアさんにも、そう言われたから」

ジョーは、帰り際にマリアさんに手渡された処方箋を思い出した。

「でも…、薬の飲用は、まだ必要なんだよね?」
「…うん」
「薬を飲まないといけないのか…」
「…でもね、それは私が…、生命を育める身体だったからなの…。人間の身体は、様々なホルモンの分泌によって維持されてるけど、その部分は、改造による影響を受けていなくて…」
「…うん、…」
「…“普通の状態” だったの。でも私は、そのバランスが崩れて、最近、体調が悪くなっていて。一番弱い部分に影響を受けた。それで、医師であるマリアさんは、将来、赤ちゃんが産める身体を、その機能を失わないように、今は薬で回復させましょうって…。つまり、ホルモン剤なの」
「ホルモン剤?」
「バランスが崩れて足りなくなったホルモンを、薬で補充するの」

ギルモア博士の話しによると、自分達は、あらゆるホルモンを分泌している脳の視床下部にメスを入れていないらしい。
フランソワーズは、最近までその話を知らなかったようだ。

視床下部は、機械で例えるなら、コンピューター内部のチップに該当する。
つまり、そこに狂いが生じると、すべてを維持出来なくなってしまう。
人間型サイボーグが、生身の部分と高性能の機械の部分を、“一つの固体”の中でうまく融合させているのは、BGの研究者達が、この視床下部という複雑な領域に、早い段階から目をつけたからに他ならない、ということらしい。
もともと、筋肉の量が多く、そして女性よりも体格が大きい男性の方が戦闘能力が高いように、ギルモア博士は、生物学的特性において、男性と女性の役割は違うと考えている。だから、ギルモア博士は初めから、彼女に高い戦闘能力を求める手術をしていない。

彼女が…、いや、003が、偵察型であるのは理に適っている。


「…ごめん。そんな薬だって知らなくて」
「ううん、良いの。ジョーには心配かけたくないから」

「そう言う君だから、心配なんだよ?…そうだな、例えば君に、大丈夫?って聞いたら…、答えは“大丈夫よ”だからね…」
「………」

目の前のフランソワーズは、壊れそうな笑顔で微笑んでいた。
ジョーは、瞬きと共に流れ落ちた一滴の涙を見て驚く…。

「ごめん…、泣かないで」

頷くフランソワーズと同時に、また涙がポトリと落ちる。

「ずっと、心配してただけなんだ…。戦闘中は、特に君が気になってて…」

そのまま数分の時が流れた。

「ジョー…」
フランソワーズは、綺麗な瞳でじっとジョーを見つめる。

「…フランソワーズ?」

「余裕なんてない、そんな緊迫した中で…、私を心配してくれてて嬉しいわ」

「…………」

「でも…、伸ばした手が届かなくなるような、そんな遠くへは行かないでね。これからも、ずっと…、私は、そっちの方が心配だから…」

「うん、…約束する」

フランソワーズは、その一言以降、何も言わずに黙って俯いてしまったジョーの頬に指でそっと触れた。
そして、顔を上げたジョーのその頬に、優しい優しい、キスをした。
数秒で、その柔らかい唇は離れ、瞳を潤ませたままのフランソワーズは、ジョーをただじっと見つめる。

ジョーは、初めて自分の頬に触れたフランソワーズの唇の感触に呆然として、一瞬、周囲の音が聞こえなくなって、まるで時が止まったように動けなくなった。

やがて重い曇り空は、これ以上は耐えきれないような雨を突然、バチバチと窓ガラスに叩きつけた。
その音に我に返ったように、そして、突然降り出した外の雨音の感覚が早くなるにつれ、ジョーの鼓動も早くなっていた。

「…フラン…ソワーズ、今、……」

「……あ、今のは…」

日本人であるジョーに、キスの習慣がないことは知っていたのに…。

咄嗟にそう思ったフランソワーズは、急に恥ずかしくなって席を立った。
そして、階段へ向かおうとしたが、それより先にジョーの手が、彼女の手を掴んでいた。
「…待って!!」  という言葉と共に。
そしてジョーは、繋がれたその手を離さずに、わが身に引き寄せると、フランソワーズを抱き締めた。


ジョー、フランソワーズ


言葉で伝えるよりも、多くの想いが伝わるように。
抱き寄せる腕の強さも、フランソワーズとの距離も、今は戦闘の時のものとは違う。
ジョーは、腕の中のフランソワーズの感触に、徐々に高揚する想いを、意識して落ち着かせた。

どれくらい、そうしていたのだろう?

思ってもいなかった自分の行動に、ジョーは腕の中でじっと動かないフランソワーズの様子をそっと窺う。
光の中で、フランソワーズは、顔を上げた。

「…ごめん、驚かせてる」

「…ううん、…驚かせたのは…、きっと私の方…」


窓を叩きつけるような強い雨は、通り雨だったらしい。
ほんの一時、強い雨を降らせた雲の切れ間から差し込んだ光は、天窓から二人を優しく照らしていた。




EVERY BREATH YOU TAKE 〜束の間の休息〜


Fin





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