居ても立ってもいられず、部屋を飛び出した。
なるべく音をたてないように注意しながら、ガレージからバイクではなく自転車を引っ張り出すと、ペダルに足をかけるのももどかしく、飛び乗って、漕ぎ出した。
まだ明けきらない、薄暗い朝の冷ややかな空気が体を包む。
細い砂利の私道を抜け、でこぼこが過ぎると、舗装された道路に出るまで緩やかな上り坂になる。
立ち上がり、前傾姿勢で思い切りペダルを踏み込む。
大きな道路に出てからの長い下り坂を、止まらずに一気に駆け下りた。
早朝の空気を突っ切って進む爽快感に、大きく息を吸い込む。
海沿いの道。
水平線を赤く染めながら朝寝坊な太陽がのそりと顔をだすと、空はようやく白み始め、一筋に海を照らす。
眩しい海面があっという間に広がると、夜はあっけなく彼方へ去って行く。
夜と朝の境目を、ジョーは自転車に乗って駆け抜けた。
気が済むまで、目茶苦茶に走りたかった。ただ自分の体で、息が弾むほどの無茶をしたかった。
ギシギシと自転車が妙な音をたて、太腿が熱くなって悲鳴をあげた。
うっすらと汗ばんだ背中に、吹く風はまだ冷たいが日差しはじんわりと暖かく気持ちいい。
浜へ続く並木の切れ間を見つけると、ジョーはそこへ入っていった。無造作に自転車を木の柵に立てかけると、崩れるように
地べたに直に腰を下ろした。ひんやりとした草の感触に、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
海からの風。
繰り返す波音。
それに合わせるように何度も繰り返す夕べの一場面。
唇が触れたのは、ほんの一瞬だった。
彼女のびっくりした大きな瞳が、こぼれ落ちそうなほどに見開かれて自分を見つめていた。
つややかな桜色をした唇が、何かを言おうと開きかけた瞬間、ジョーは思わず彼女の腕を取って引き寄せ、もう一度唇を合わせていた。
何故そうしたのか、自分でもわからない。
ただ、それはごく当たり前のことのように思われた。
「おやすみ」
それだけ言って、あとは自分の部屋に逃げ込んだ。
彼女がその後、どうしたかは知らない。
眠れなかった。
布団にもぐり込んで何度も寝返りを打ち、何時間が過ぎたのか。
・・・フランソワーズ・・・眠ったかな。
こっそり、その名前を唇にのせてみる。
蘇る甘い感覚。
がばっと布団を頭の上まで引き上げ、ごろりと寝返った。
・・・
・・
・
ジョーは立ち上がると、波打ち際までダッシュした。
転がっている石を掴むと、走りながらの勢いで渾身の力を込めて海へ投げる。
石はゆるやかな放物線を描いて光の中へ吸い込まれた。
朝日をはねかえす穏やかな海が、ただ広がっていた。
やがて、踵を返すとひょいと自転車を抱えて向きを変え、今度はゆっくりと跨って走り出した。
途中、彼女のお気に入りのベーカリーに近づいたとき、パンが焼けるいい香りがして、朝食用のパンをいくつか求めようと思いついた。
が、そのときになってようやく、自分が何も持たずに邸を出ていたことに気がついた。
お土産はあきらめなければならない。
仕方ないな、とジョーは苦笑する。
そのままベーカリーを通り過ぎ、ジョーはもと来た道を軽快に辿っていった。
「あんなに早くから、どこに行っていたの?」
ギルモア邸に戻って最初に聞いたのは、フランソワーズのこの言葉だった。
なるべく静かに出ようと気をつけたつもりだったのだが、彼女には無駄なことだったようだ。
というより、彼女も眠れなかったのかもしれない。
「ちょっと、海まで」
「海? なんだかすごい運動をしてきたみたいね」
フランソワーズはいつもと変わらない。それもまた、当たり前のことのように思える。
ジョーは正直に、遠出をしたけれど、財布を忘れて何も買えなかったと白状した。
運動後の爽快さを漂わせているジョーをしげしげと眺めて、フランソワーズはクスクスと笑った。
「お土産はこれでいいわ」
そう言ってすっと手を伸ばすと、ジョーのズボンについていた小さな黄色い花を、指先でつまみあげた。
「ぺちゃんこだ」
「可愛い押し花だわ」
彼女の指先に載るほどの小さな花は、しっかりと花びらが開いた形で、見事な押し花となっていた。
「ごめん。今度は・・・」
「いいのよ」
言いかけたジョーの言葉を、フランソワーズが遮った。そして一瞬、いたずらっぽく笑った。
それから素早く背伸びをしたかと思うと、ジョーのほほに温かい何かか触れた。
「!!」
今度はジョーが目を丸くする番だった。
「お帰りなさい。・・・まだ言ってなかったから」
そう言ってフランソワーズは、ジョーの背を押す温かい春の日差しのようにふんわりと微笑んだ。
― Fin ―
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