written by ぽろん sama*
「ここのことは心配しないでいいから、ゆっくり楽しんでおいで」
イワンを抱いたギルモア博士の言葉に後押しされるように、ジョーとフランソワーズは研究所をあとにした。
「大丈夫かしら」
博士の食事のこと、イワンのミルクにオムツ替え・・・。
気掛かりがたくさんある。
車の中で心配そうに何度も振り返るフランソワーズに、ジョーは苦笑した。
数日前のことである。
テレビに、蛍が群舞する神秘的な映像が映った。
旅番組で、どこか田舎の清流を紹介しているものだった。
暗闇に舞い飛ぶ蛍の光は美しく、フランソワーズの興味をそそった。
「わあ・・・」
そう言ったきり、食い入るように見つめるフランソワーズに、ジョーは思わず声を掛けていた。
「蛍・・・見に行ってみる?」
論文を書かなくてはならないから、と博士は留守番を申し出た。
イワンの面倒なら自分が見る、とも言った。
普段、家事に忙殺されているフランソワーズを解放してあげたいという思いやりである。
「博士とイワンのことより、僕のこと・・・というか自分の心配もしてほしいな」
ぼそっと言うジョーに、助手席のフランソワーズは不思議そうな顔をした。
「きみのこと、襲いたくなったらどうしよう」
フランソワーズはぽかんとしていたが、やがて笑い出した。
「やあだ、ジョーったら」
何がおかしいのか、フランソワーズはいつまでもくすくす笑っている。
仲間から朴念仁呼ばわりされているジョーの、珍しい発言がツボにはまったらしい。
そんなフランソワーズを横目に見ながら、ジョーは内心で深い溜息をついた。
冗談で言ったのではない。
蛍を見るのだからそれは夜のことであり、つまりはどこかに泊まることになるのである。
実際に、二人で一部屋、宿の予約も取ってある。
別々の部屋を取ったほうがいい、というジョーの申し出をフランソワーズはあっさり却下した。
もったいないし、独りではつまらないというのである。
無邪気である。
こんなに警戒心が薄くていいのだろうかと思う。
ジョーだって一人前の男なのだから、理性が飛ばないとも限らない。
もちろん、あってはならないことである。
それは重々わかっている。
むしろ、わかっていないのは彼女のほうである。
自分を含め、彼女はメンバーの男性すべてを兄さん扱いなのだ。
皆のことはわからないが、少なくとも自分は彼女を妹とは思っていない。
信用されているのだからこれでいい、と自分を納得させてみるが、内心複雑ではある。
――もう少し男扱いしてくれてもいいよなあ・・・。
予約してある宿には早めに着いた。
チェックインするジョーに、フランソワーズは小声でささやいた。
「ねえ、わたし達、どう見えるのかしら」
ジョーはどきりとした。
やっぱり兄妹には見えないわよねえ、と小首を傾げる。
男女がひとつの部屋に泊まることの不自然さはわかるのか、やはり、人の眼が多少は気になるらしい。
それだけのことであろうが、勝手に色々と考えを巡らせているジョーは、フランソワ―ズに心を見透かされたような気がした。
平静を装い、宿帳にペンを走らせる。
その横でフランソワーズはジョーの気も知らずにこそこそと続ける。
「あとは、夫婦・・・にしては若すぎるし、やっぱり恋人同士?ねえ、どう思う・・・?」
「どう思うって・・・」
ジョーはペンを置いた。
フロントで受け付ける女性――小さな宿屋だから、彼女が女将であろう――がにこにことして二名様ですね、と確認した。
余計なことは考えないようにしよう。
そして、なるべく接近しないようにして・・・。
彼女の信頼を裏切らないようにしなければ・・・。
部屋に案内されながら、ジョーは自分に言い聞かせていた。
蛍を見られる場所を確認するため、二人は外に出た。
日差しは強いが、乾いた風が体温を下げるように吹き、心地よい。
少し歩くと、川があった。
川幅はそれほど広くはない。
上流だけあって、澄んだ透明な水が勢い良く流れている。
川に沿ってしばらく歩いてみる。
「たぶんこの辺だな」
五分ほど歩いたところで、ジョーは立ち止まった。
流れが急に緩やかになり、ほかより川幅が多少広い。
向こう岸も、崖ではなく、人が立てる、十分なスペースが広がっている。
ジョーはフランソワーズの手を取ると足を滑らせないように慎重に川岸に下り、水の中を覗いた。
丸く研がれた大きめの石が済んだ水底に転がっている。
きらり、と水中で何かが光った。
魚だった。
銀色の鱗を光らせて、小さな魚が何匹も何匹も、水の流れに逆らうように石にへばり付いている。
風が樹をざわつかせた。
フランソワーズは思わず水に手を浸けた。
じんと冷たかった。
――さわっちゃだめ――
声が聞こえたような気がして、フランソワーズはジョーを見上げた。
ジョーは黙って川を見ている。
――さわらないで。人間の体温は熱すぎるの。わたしたちの短い命を邪魔しないで――
ああ、魚の声ね・・・。
フランソワーズは何故かそう思い、水から手を抜くと立ち上がった。
驚かせてごめんなさいね。
胸の中でそっと詫びた。
夕食を済ませると、蛍狩りにはちょうど良い時間だった。
早く蛍が見たいと言い、フランソワーズはジョーの袖を引っ張るようにして歩いた。
あたりはもう薄暗い。
いくら眼が良いと言っても、足元は草むらである。
「やっぱり懐中電灯を借りて来る」
フランソワーズにここで待つように言い、ジョーは宿に引き返して行った。
フランソワーズは天を見上げた。
ほんのり薔薇色を残した瑠璃紺の空に、星が瞬き始めていた。
そういえば、今日は確か七夕だった。
宿にも笹が飾ってあったし、夕餉の膳にもそれらしき料理があった。
七夕の伝説は、ジョーから聞かされてフランソワーズも知っていた。
美しく、悲しい伝説・・・。
――彦星と織姫は結婚したあと、まったく仕事をしなくなったために天帝の怒りを買い、天の
川の両岸に引き離されてしまいました。
年に一度、七月七日の夜に会うことを許されましたが、雨が降ると水嵩が増して河を渡れ
なくなり、二人は会うことが叶いません。
雨が降らなければ、たくさんのかささぎが飛んで来て羽を重ね、橋を造ってくれます。
その橋を渡って、彦星と織姫は会うことができるのです――
空には、アルタイルもベガもひときわ大きく輝いている。
フランソワーズには、ふたつの星が喜んで微笑んでいるように見えた。
今はうっすらと靄のように見える天の川も、夜が更ければもっとはっきり見えるに違いない。
もしかしたら、かささぎの橋も見えるかもしれない。
晴れて良かった、とフランソワーズは思った。
一年に一度の逢瀬・・・。
二人はどれほどの切ない日々を重ねて、今日という日を迎えるのだろう。
不意に、フランソワーズの前を淡い光がよぎった。
――蛍だわ・・・。
光に誘われて、フランソワーズは歩き出した。
ここで間違いない。
フランソワーズは日中見た景色を思い出し、確信した。
そろそろと慎重に川岸を下る。
同じ川なのに、昼間とは全く表情が変わっていた。
闇に引き込まれるようだった。
さらさらと流れる水の音がやけに大きく聞こえる。
何だか、怖いような気がする。
ジョーを置いて来ちゃった・・・。
蛍の光に誘われて勝手に来てしまったことを思い出し、戻ろうと顔を上げた時、フランソワーズは眼の前の光景に言葉を失った。
光の乱舞だった。
数え切れないほどの蛍の光が、点滅を繰り返しながら、微かな軌跡を残して辺りいっぱいに舞っていた。
宇宙の星々・・・そう、星座の中にいるようだった。
不思議な現象にフランソワーズは気がついた。
音はしているのに、川の流れは止まっていた。
まるで時間を止めたように。
鏡のように澄んだ水面に蛍の光が映っている。
それだけではない。
その水面は天上を流れる星の川までも映し込んでいた。
すっかり心を奪われた。
フランソワーズは無数の星々の中に足を踏み入れた。
水が冷たい。
しかし、その冷たさはまるで気にならなかった。
ゆっくりと、川の中ほどまで来て立ち止まる。
一歩、また一歩。
――天の川の中にいるみたい。
夢のような気持ちでフランソワーズは蛍に向かって手を伸ばした。
――さわっちゃだめ――
また声が聞こえた。
今度は蛍の声だと思った。
――わたしたちはもうすぐ命を終えるの。だから邪魔しないで――
待っているように言ったはずなのに、フランソワーズの姿はなかった。
――やられた。
やれやれ、と肩をすくめるとジョーは彼女を探すため走り出した。
待ち切れなかったか、それともジョーのことを忘れるほど物珍しい何かを見つけたか。
そんなところだろう。
ぱしゃ、という微かな水音を聞いてジョーは急いで川岸に下りた。
そこで見た光景に、心臓が打ち抜かれたようにジョーは動けなくなった。
川の中、腰まで水に浸かったフランソワーズの周りを無数の蛍が飛び交っていた。
水の流れが止まって見える。
川面に映った星と蛍たち。
無数の小さな光が儚く輝く水の中に立つフランソワーズ。
彼女自身が、蛍か星になってしまったようだった。
これは夢ではないのか・・・。
そう思うほど、フランソワーズの姿は幻想的だった。
――フランソワーズが消えてしまう・・・。
不安に襲われ、ジョーの動悸が激しくなった。
フランソワーズが川を渡りきると、止まっていた時間が再び動きだしたように、水が流れ始めた。
水面には、天の川は・・・星々はもう映っていない。
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