『私のジョー』
それは冬のある夜のことだった。
帰途についていたジョーは、大通りから一本入ったひとけのない路地で呼び止められた。
「もしもし、お兄さん」
お兄さんとは僕のことだろうかと思いつつ、声のした方に顔を向けた。
そこには全身黒ずくめの長身の男が立っていた。
ビジュアル系ロックシンガーのようだなとぼんやり思ったのは、彼の髪が長かったせいだろうか。

「僕に何か用ですか」
他に人がいなかったので、ともかくジョーは足を止めた。
「はい。突然すみません。が、あなたにお願いしたいことがありまして」
「お願い?」
「はい。実は私、これから行かねばならないところがあるのですが、そこにはこのコートを着ては行け
ないのです」
自分の着ている黒い毛皮のコートを示す。
「どうか貰っていただけないでしょうか?」
「えっ、でも・・・」
高価そうな毛皮のコートを貰うなど、ジョーには抵抗があった。
「本当に困っているんです」
対する男は、眉を八の字に下げ本当に困っている様子である。
一台の車が通り過ぎ、一瞬、ヘッドライトが二人の姿を照らして行った。
男は色白で彫りが深い顔立ちであった。そして、何より特徴的だったのは。
瞳の色が左右違っていたのだ。
片方が銀色でもう片方が金色。
――気のせいだろうか。
そんなジョーの疑問に答えるかのように、男は笑って言った。
「これ、カラーコンタクトなんです」
「・・・ああ、そうなんですか」
「仕事の関係でつけているんです」
「仕事・・・」
やはりビジュアル系ロックシンガーなのだろうかとジョーが半分納得しかけていると、男は黒い毛皮の
コートを脱いでジョーに差し出した。
「本当にすみません。が、もう行かなければ」
「えっ、あの」
無理矢理コートを持たされ戸惑うジョーであったが、一瞬後、男は消えていた。
「・・・・」
一陣の風が吹いて、その冷たさにジョーは首をすくめた。
急に気温が下がったようだった。
ブルゾンを着てはいたが、どうにも寒い。
手元のコートに目を落とす。
とりあえず――なりゆきとはいえ、貰ってしまった毛皮のコート。
これをどうするのか考えるのは後でもいい。今はとにかく寒さをしのごうと、ジョーはコートの袖に手
を通した。
***
「ジョーったら、どこに行っていたの」
抱き締められる。
「どこって・・・」
今朝、行き先をちゃんと言ったはずなのに。
「ふふっ、まぁいいわ。さ、帰りましょう」
帰る。
そう、確かに帰る途中だった。
フランソワーズが心配して迎えに来てくれたのだろうか。全然、気付かなかった。
ついさっき妙な男に会ってさ――と言いかけて、ジョーは違和感に包まれた。
――地面ってこんなに近かっただろうか。
いつもの目線と高さが違うのだ。
アスファルトが妙に――近くに感じる。
フランソワーズ、これはいったい――
「ジョーったら。今日はいつもよりお喋りね?」
くすくす笑う声が降ってきて、ジョーはそのまま固まった。
ジョーの見つめた先にいたのは、どう見ても小学生の少女だったのである。
腕にしっかりジョーを抱き締めて。
――どうやら自分は猫になってしまったらしい。
少女の腕に揺られながら、ジョーは現状を分析した。
自分の発した声が、どうやっても猫の鳴き声にしか聞こえないのだ。
しかも、少女がジョーの喉を指先であやすように撫でると喉が勝手にごろごろいって、気持ちがよくな
る。
だから、きっと猫になってしまったのだろう。
いったいどうして。
という問いは、先刻の黒ずくめの男に集束する。
おそらく彼が何か関係しているのだろう。
しかし。
ジョーにわかるのはそれだけだった。
夢なのか、現実なのかもわからない。
「朝からずっと探してたんだよ?」
少女は先刻からずっとジョーに話しかけている。が、相手が猫だと知っているのだから、話しかけると
いうより独り言に近いものであった。
その話を聞いて、ジョーは事情を理解した。
少女の飼い猫が朝から行方不明であり、自分はその猫に間違われて彼女の家に連れて行かれるところら
しい。
人違いならぬ猫違いだと、彼女の親が見れば気がつくだろう。
そうすれば自分は解放されるわけである。
猫から元の姿に戻るにはどうすればいいのかはそれから考えればいい。
いったん分析が終わると、ジョーは緊張を解いて少女の腕に身を委ねた。
あとは彼女とともに帰宅するのを待つだけだった。
***
「ただいまあ」
少女は声とともに靴を蹴り脱いで駆け足で中に入り、奥の間のふすまを開けた。
「おや。おかえり」
「おばあちゃん、ジョーが見つかった!」
「えっ?」
「ほら!」
少女が腕の中の猫を目の前の老婆に示した。
良かった。これで猫違いであるとわかるだろう。そうすれば、いますぐ自分は解放されるわけで――
ジョーは期待した。サービスで一鳴きしてみせる。
しかし。
「あら、ほんとだ。ジョーだね」
「ねっ?おばあちゃん。良かったね」
「ありがとうね。どれ――」
満面の笑みで、老婆は少女の腕から猫を抱き取った。
「ジョーや。姿を消したからには、いよいよお前も逝ってしまうのかと思っていたよ」
涙がひとすじ頬を伝い、ジョーの鼻先に落ちた。
――そうか。
あの黒ずくめの男。アイツがおそらく・・・本当の「ジョーという名前の猫」に違いない。
自分の寿命が尽きるときがきたけれど、少女と老婆が心配で、それで――
すると、あの黒い毛皮のコートか。
あれを着てしまったから、自分は猫に――「ジョーという名前の猫」になった。
これはちょっと困った事態かもしれない。
今さらながら、自分の置かれた状況を思う。
でも、飼い主はこの少女である。いくら可愛がっている猫だとしても所詮は子供。
いつかは飽きるだろう。そうすれば、自分は解放される。
――いや。そんな時期を待たずとも、明日になれば――所詮は猫なのだから、いくらでも外へ出る手は
あるだろう。
繋がれているわけでも、檻に入れられるわけでもないし。猫は放し飼いと決まっている。
ジョーは老婆の頬をぺろりと舐めてにゃあと鳴いた。
逃げる算段ができれば、あとは時期を窺うだけである。少しくらいサービスしてもいいだろう。
ともかく今夜遅くにならなければ機会はやってこないのだから。
相手は子供だ。もうそろそろ眠くなる頃だ。彼女が眠ってしまえば、おそらく自分に注意を向ける者は
いなくなる。
「・・・それにしても、ジョーって長生きだよね」
少女が大きな欠伸をしながら、老婆の背中越しにジョーを見る。
「おばあちゃんが生まれたときから一緒なんでしょう?」
「そうだねぇ」
「おばあちゃんと同じ年の猫かあ。ね、おばあちゃん。ふつう猫ってそんなに長生きしないよね?」
「そうだね。・・・でもジョーは特別だから」
「特別?」
「ああ。特別なんだよ」
その声に不穏なものを感じ、ジョーは老婆をじっと見つめた。
――彼女が生まれた時から一緒の猫。そんな長生きの猫がいるわけがない。
だとすれば――
考えられるのは、猫が寿命を迎えたら、新しく「ジョーという名前の猫」が飼われている。ということ
だった。
そうすれば、いっけん「ジョーという名前の猫」は長生きしているように見える。
何代にもわたっているとはいえ、外から見れば「長寿の猫」だ。
――そういうからくりか。
では、あの男――おそらく、ジョーという名を持つ猫なのだろう――は、どうしてか同じ名前を持つジ
ョーに声をかけ、そして、次の代の「ジョーという名前を持つ猫」を託した。
すると、自分がその役目を降りるには、あの黒い毛皮のコートを脱げばいいのだろう。たぶん。
しかし、その手段はわからなかった。
あるいは、「ジョー」という名前をもつ人間を探さなくてはいけないのかもしれない。
「ジョー」という名前をもつ人間。
・・・人間?
なぜ人間の必要がある?
まさか――代々受け継がれてゆく「ジョーという名前の猫」とは、元は全て人間?
――いや、まさか。
ジョーは心中、苦笑する。
そんなことがあるわけがない。だったら「失踪した人間」と、もっとマスコミで取り上げられるはずで
――
「・・・ジョー」
老婆の手が優しくジョーの頭を撫でる。
少女はいつの間にかいなくなっていた。眠そうだったから、部屋に行ったのだろう。
ここには老婆とジョーしかいなかった。
「ずっと探していたんだよ」
代わりになる人間を。
――いや、それは妄想だ。僕は自分で勝手に想像してそう感じているだけで・・・
ジョーは頭を振った。
ともかく、夜中――朝になれば。いつでも逃げる機会はやってくる。
「ずっと――ずっと。・・・やっと会えた」
何を言っているのだろう?
「私の――ジョー」
ジョーが老婆の腕の中で考え込んでいる間に、老婆はすっくと立ち上がり部屋の隅に進んだ。
そして。
「もうどこにも行ってはだめだよ」
猫の頭を一撫ですると、目の前の――鉄製の檻を開けて、その中に猫を入れた。
「ほらほら、そんなに大騒ぎしなくても何もしないよ」
檻の中の猫が騒いでも動じない。
老婆の顔が近付く。
「ほら。何も怖いことなんかないんだから」
老婆の瞳に映るのは、黒い毛並みの猫だった。片目が銀色で片目が金色の。
それは、どこからどう見ても猫だった。
ジョーは自分の猫になった姿を目の当たりにして衝撃を受けた。
自分は本当にこのまま猫の生活を送るのだろうか――
このままこの檻の中で。
逃げられず。
猫として。
・・・フランソワーズ。
もう会えないのかもしれない。
ジョーは力なくうなだれようとして――今一度、老婆の瞳を見つめた。
それは、自分が本当に猫になってしまったのかもう一度確認するためであった。
しかし。
「私のジョー。もうどこにも行かないで・・・ね?」
老婆の瞳は。
「やっと会えたんだから――」
深い深い蒼だったのだ。ジョーのよく知っている色の。
そして髪は――これは、昔は金髪だったのではなかろうか。
「おばあちゃん――」
さっきの少女の声が近付いてくる。まだ寝ていなかったようだ。
「お風呂、空いたから入ってきていいよ。おばあちゃん!」
けれども聞こえないのか、老婆は猫をじっと見つめている。
「私の、ジョー・・・・」
end
Written by うさうさ さま*
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